花火の歴史
 
花火で使われる火薬の歴史からはじめると、起源はいろいろですが、紀元前3世紀に古代中国で火薬の基本となる「硝石」が発見されたことが大きな理由で、西洋では通信手段としての「のろし」が使われていたのは、ギリシャ・ローマ時代まで遡ることができます。
火薬が観賞用花火に用いられるようになった歴史は14世紀後半のイタリア、フィレンツェに始まるといわれ、当時はキリスト教の祝祭などで、火を噴く人形のような見世物として使われたようです。ヨーロッパ諸国へ流布したのは16世紀、17世紀には花火の技術を教える学校もできたようです。
1786年にベルト氏により「塩素酸カリウム」が発見されるとそれまで「硝石」「硫黄」「木炭」を主材としていた花火に色彩を自由に与えられることができるようになりました。18世紀には各地で「大花火大会」が開催されるようになりました。
1543年の鉄砲伝来とともに火薬の配合も日本に伝わりました。火薬は当初、鉄砲などの火器用、もしくは狼煙などに使われていたようですが、1589年、伊達政宗が日本で最初に花火鑑賞をしました。1613年になるとイギリス国王ジェームス1世の使者として日本を訪れた、英国人ジョン・セリーヌ(セリース)が中国人の花火職人を使い、江戸城もしくは駿府城で徳川家康に花火を見せたという記録も残っています。
徳川家康が喜んだかどうかはわかりませんが、このころから「花火師」が生まれ、1659年ころ大和の国(現:奈良県)から江戸に出てきた弥兵衛(初代鍵屋)が葦の管の中に火薬を入れた初歩的な「おもちゃ花火」を考案し、江戸庶民に人気を得たようです。江戸の町人文化に育まれ、花火の人気が上がるとともに、花火による火災も頻繁に発生するようになり、幕府は街中で花火を揚げることを禁止する触れを1548年、1570年、1580年など計6回にわたり出しています。
1733年、将軍徳川吉宗の時に前年の全国的な凶作と江戸の疫病流行で多くの死者が出たため、幕府は慰霊と悪疫退散をかねて両国橋の近くで水神祭を催しますが、その時、余興で揚げた花火がきっかけで、諸大名たちも花火を打ち揚げるようになり、両国の花火(川開きの花火)はどんどん発展していきました。
江戸以外にも花火が盛んだった地方は三河、近畿、信州、越後、九州と言われています。
明治に入ると、マッチの原料でもある塩素酸カリウム、ストロンチウム、アルミニウムなどが海外から輸入され、これらの新しい薬剤により、花火は色彩豊かになります。
その後、大正、昭和と次々に新しい化学薬品が導入されると、なかでも打ち揚げ花火は色や光の配置や変化など、日本独特の発達をとげ、特に途中で光が複数回変化する「変色物」と呼ばれる手法は日本以外では例がないようです。また、おもちゃ花火も日本人の手作業の器用さを生かして、いろいろなものが作られ、打ち揚げ花火とともに世界へ輸出されるようになりました。
硝酸カリウム(硝石)は昔の日本では産出されていませんでした。鎖国により輸入などが困難になってからは花火師たちは苦労したようで、築50年以上の民家の下からは多量の硝石が採れたらしいのですが効率が悪いため、新たな生産方法として、干草、下水(汚水)、魚の内臓、鳥の死骸、牛馬の糞などを繰り返し積み上げることにより2〜3年で作れたそうです。なんだか臭ってきそうですね。
鍵屋が七代目の時、当時の職人頭が独立し、玉屋を作ります。以後30年ほど「鍵屋」と「玉屋」は両国の花火で競演しますが、「玉屋」は将軍家慶が日光へ参拝する前夜に火災を起こしたため、江戸所払いとなってしまい、初代で断絶してしまいます。
3号玉と4号玉
新潟県小千谷市片貝の花火は有名ですが、ここの花火の歴史は400年だそうです。伊達政宗や徳川家康が花火を鑑賞したころからの歴史があります。花火は各地方でも発達してきましたが、その理由のひとつには何か行事があると花火を揚げていたことにあるのかもしれません。特に祭りや結婚式などで打ち揚げたのでしょう。昔は各家々がそれぞれのところで作った花火を神社に持ち寄り奉納したそうです。